左半身のうずき

僕の左半身が最近うずいている。
それがここ数日きつくなってきた。

左というのは、陰陽でいうと陽であり、男女で言うならば男。

僕の原材料は、父と母でありまして。

つまり、僕の左半身のうずきは父のうずきということになるのであろうか。
僕の男性性というか。

ふと、思うと父親は若い頃やりたいことが出来なかったと話してくれたことがある。
2人のおじいちゃんも本当にやりたいことをやれたのかななんて思う。

聖書に、イエスキリストを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。とある。
仏典の方にも、ちゃんとした言葉は知りませんが、自分が悟れば九族(先祖四代、子孫四代、自分)が天に生まれると。

自分が本当に解放されたとき、家族は本当に解放されていくんだなと感じます。

今この僕の左のうずきは、何かとても大事なものを教えてくれているような気がするのです。

保育園にて

4月から娘が保育園に通っている。

離れる事で愛を知る。

この世では、離すことでしかわからないことがある。

自分の意見、考え、一人でいるとなんだか疲れる。

わかったつもりでもしっくりこない。

こんなことがよくあります。

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糠床から

遠藤家で糠床を始めまして、そろそろ糠床らしき匂いがしてきましたので、試しにきゅうりを漬けてみました。

妻と試食。

美味しすぎる!!びっくりしました。

そして、ふと考えてたんです。
ぬか漬けについて
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何を食べたらいいか。

先日、マッサージをしていたおばあちゃんから質問。

「やっぱり食べ物ですかね」
健康になるためには、という意味の質問だったと思います。
「食べ物は大事だと思いますよ。」
「何がいいですかね?」
「好きなもの、食べたいものを感謝して食べたらどうですか?」
「えっ?あ、そうか。それでいいんだ」

そうなんですよ。
テレビやら雑誌ではやしたてるし、とても大事なことを結構忘れてるんですよね。
玉ねぎは、わりと何でも料理に入ってますし、焦げた魚は毎日食べられません。
ごついステーキだって毎食は無理でしょう。
体は知ってるんですよ。
今何が自分の体に必要か。
それを頭で何がいいとか悪いとかやろうとするから無理が来る。しんどくなる。

何でもいいんですよ。

口から入るもんで悪いものはないそうですよ。出るもんが悪いもんだそうで。

農薬がどうとか、化学調味料がどうとかいいますけど、口から肛門までパイプになってるわけです。何箇所か門があり、太くなったり、細くなったり、貯めたりするだけで外界とつながる一本の管なのです。
消化器系は必要なものは取り込み、いらないものは吸収せずに出す仕組みになってます。
それを、あれがいいとか悪いとか頭がするから体が混乱して、それなら、取り込もうか?捨てようか?となるのではないでしょうか。
神様から与えられたものに関して、どうのこうのと理屈がつくから、おかしくなる。アダムさんが食べてしまった善悪の実ですね。

聖書も教えてくれています。
「何を食べようか何を飲もうか思い悩むな。」

子供の便をみて思いました。
大豆が好きだったのかこれでもかと食べておりました。便はそのまま大豆の形で出てきて、全部ではないように感じました。必要な分、体は吸収して、不要分は排出したのではないでしょうか。

人間の持っている体の素晴らしさを忘れ、頭でどうにかすることが苦しくなる原因だと思います。

好きなものを好きなだけ食べてみたらいい。ケーキなんて、何十個も食べられないでしょう。食べられたって毎日は無理じゃないですか。
僕は昔、コーヒーゼリーをとことん食べたくなったのでやってみたら、3カップで、気持ち悪くなりました。そんなもんです。

体の素晴らしさがわかった上で、何がいいとか悪いとか始めないといけない。
体を構成する上で不都合なものは、そんなに沢山食べられません。

スタートを間違えるとゴールにはつかないしゴールがわからなくなる。スタートをしっかりおさえたら、ゴールにはついたのと同じです。

何のための食事か。

誰かと美味しく楽しく時間を共有するため。
生かされているということに感謝するため。

そんな目的なのではないでしょうか。

健康に生きるため。病気にならないため。それも大事ですが、健康になって、病気にならずに何をするかが大事のように思います。
そうすると、何を食べるべきかよりも、どう食べるべきかが大事だと思います。
そこに、神様の力、生命の力が働いてくれると信じています。

毎日笑顔で毎日暮らしていけますように。

死にたいということから

訪問マッサージをさせてもらっていると死にたいとおっしゃる方もおられます。

「死にたい」と言われて何を思いますか?!
僕は、最近それはそれでよいと思うようになりました。家族さんから言わせたら、何をと思われるでしょうし、自分の家族であればそうは思えないかもしれません。
しかし、第三者として、家族でない他人だからこそそう思えるような気がするのです。

「死にたい」という願いは必ず叶います。
「生きたい」という願いは最終的には叶いません。

生命を前向きにとるか、後ろ向きにとるかの違いで本質は同じのような気がします。

「死にたいということは、最終的には実現しますからその想いは静かに取っといてください。悪いことではないですし、ただ、今、生きてますからね。いつ起こるかわからないことを思い悩むより、今生きてますから。そこが大事なんですよ」と伝えるとホッとした顔をされます。

生きる事を目的とした医療、世の中では、死ぬこと、死にたいと思うことは悪いこととなっています。
悪いことを思ってしまう自分は悪い人間なんだ。生きたいと思っている人に失礼だ。そんな風に思ってしまうのではないでしょうか。
なぜ比べてしまうのでしょうか。
死にたいと思ってしまったことは仕方ない事だと思うのです。

例えば、目を覚ました時に手足が動かなかったらどう思いますか?!したいことが出来なくなった時にどう思いますか?
大恋愛の末にふられたら…
あと少しで手が届きそうなところにあと一歩で届かなかった…

こんなんだったら…って思ってしまっても仕方がないと思います。

だからと言って、「死にたい」がいいかという話ではありません。
生きたい、死にたい、ではなく、今生きているという場所に立つ事が大事だと思うのです。

今。生きている。

この事実にたつ。

過去できたことを懐かしくなるのではなく、いつか滅びる体のことを思うのではなく。

今。ここが大事だと思うのです。過去に生きるのではなく、未来に生きるのではなく、今を生きる。

美味しいお酒がグラスに半分になったとき、「半分しかない」「半分もある」ではなく、ただ素直に「半分ある」というところにたつ。
そこからゆっくり飲むのか、一気に飲んで楽しむか、友達とわけるのか、決めたらいい。

今を知る。
現状を知る。

そこから始めないといけないと思うのです。

中島みゆきさんの「糸」という曲がある。

とても有名な曲だと思うのですが、とても素敵な曲でして。

歌詞を聞けばきくほど、美しさを味わえるといいますか。

♪縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は〜♪

この布がいろいろな事をするかもしれない。という歌詞です。

本当にそうです。

夫婦生活、パートナーシップ、人との関係において、もっといったら生き方においてかもしれません。この歌詞に本当に大事な事がつまっていると思うのです。

同じ糸でありながら、縦糸と横糸という全く違う性質のものが作り出す新しいもの。布。

同じ人間でありながら、全く違う男と女からうまれる夫婦。家族。

そこに新しいものが生まれる。

これは、事実だと思うのです。

同じものでありながら、違う性質を認め合い協力し合い助け合って何か成し遂げようとした時に新しい全く違った美しいものが生まれる。

 

しかし、自分と相手と違う事が大事であるはずなのに、自分は正しい相手は違う。もしくは自分が間違っていて相手が正しい。という判断をしてしまう。

相手がいて自分がいるという事実。自分がいて相手がいるという事実。

縦糸は縦糸のまま。横糸は横糸のまま。縦は横になる必要はなく、横は縦になる必要も無い。というよりなってはいけない。

そのままで。与えられた性質そのままで、生きていかなければいけない。だからこそ「布」が出来る。

その「布」は人を温められるかもしれない。傷をかばうかもしれない。その布を織りあり合えた糸に出会えた事を、人は仕合せと呼ぶのだそうです。

「相手と違う」これは、当たり前である。だからこそ新しいものがうまれる。

そのままで、ありのままで、認め合った時、受け入れ合った時、美しいものがうまれる。

 

そんなことをいっても…ねぇ…

それはきっと自分と他人は別であるという認識からくるのであろう。

もし自分と他人が一つであり同じ存在という認識が出来たならば、そんなことはおこらない。

自分と他人は違う。でも自分と他人は同じという話になっている。

ややこしくなってきた。

でも、これは視点が違うわけで。

 

身体を考えてみたら良いのだと思う。

右手と右足はまったく性質が違う。右手が右足になる必要は無い。というか、なり得ない。うらやむ必要も無い。なってはいけない。

しかし、大きな視点で見ればそれは、同じ一つの身体の一部であるということ。一つの身体を動かす為に、それぞれが同じ目的をもってそれぞれの働きをする。

部分という視点に立つ時、それぞれは違って見える。全体という視点に立つ時、それぞれは同じ一つのものであるように見える。

 

人間関係においてもそう。一人一人で見たら違う。でも大きな視点でみれば同じ生命によって生かされているわけです。

地域を日本を世界を地球を宇宙を、それらを構成する一人一人が、それぞれ与えられている働きを知り、していければみんなが喜び、幸せになれる。

と思うのです。

「糸」聴いてみて下さい。

間質性膀胱炎

30代の女性。腰痛とのことで施術させていただいた。

聞くと、間質性膀胱炎という病気を持っているそうだ。症状としては、頻尿(昼夜を問わず尿の回数が多い)、尿意切迫感(急に尿意が起こり我慢できない感じ)、膀胱が縮まる、膀胱の痛みを主な症状とする病気。とのこと。

これは、原因不明の難病といわれ治療方法は無い。膀胱を広げるという手術もあるそうだが、根本治療ではない。

出来る事は、炎症を抑えたり、食事の制限を行うぐらいで治療法は見つかっていない。

 

そんなもの、マッサージでどうにかなるものなのか。だからといって、国家資格をいただいている医療従事者としてほっとくわけにはいかない。僕に出来る事は指圧をしながら話を聞くということ。

 

いろいろな話をしていると、ふとその方はお母さんの話をされた。

「尊敬はいっぱいできるけれど…好きなところはあるけれど…」という感じ「けれど」というのが引っかかっていた。両親には感謝しないといけないと頭ではわかりつつもどこかひっかかってしまう。どこが嫌なんですかと聞くと、「私も出来てないから言えないけれど、自分が出来てないのに、いろいろ言ってくるところかなぁ、片付けとか身の回りのこととか」と。

彼女は、インテリアの仕事、身の回りを整える仕事をしている。

ふと感じる事がありましたので「その身の回りが出来ていないお母さんのおかげで、今の仕事が出来てるのではないのですか?お母さんのおかげでインテリアという、どうやって生活を豊かにするかという勉強をさせてもらったのではないですか?」と。

お父さんは真逆でほとんど関心がないとのことで、一緒にいると楽。そんなお父さんが理想の男性になるぐらい好きである。

でも干渉しすぎるお母さんがいるからその反対のお父さんが好きなだけで、本当は本音で話したい。お父さんと関わりをもちたかったということに気づかれました。

 

「お父さんもお母さんもひとときも忘れる事がなく、本当は愛して愛して愛しまくっていた。言葉がきつくなったり、放任という形は、間違って受け取ってしまっていただけで、両親の精一杯の愛情の表現だったのでは?」と伝えました。

彼女から涙があふれ、しまいには笑っておりました。泣いてるのだか笑っているのだか。

聞くと、「結婚はしたい、子供は欲しい。けれど、両親と同じになってしまうのではないかと怖かった。。」そんな話もされました。

でも、もう終わり。昨日できた闇も百万年前からある闇でも光を照らせば消えます。することは蓋をあけること。そしてそれはした。

 

闇。光の無い状態。明るくない。不明。

つまり原因は不明だったわけです。闇と病みは同じ語源だそうで。病気の原因は闇。つまりどこかに蓋をしてしまった結果なのではないか。

どこか勘違いして、両親の愛情に蓋をしてしまっていた。闇が出来てしまった。どこか愛されていないと思ってしまった。

でも、蓋が開いた。闇に光が射し、涙と笑いと共に勘違いの悲しみは流れ去り消えてしまったわけです。

そういえばとおもって「腰痛どうですか?」と聞くと 「忘れてた」という話でして。

 

水分というのは涙から印象するように悲しみを象徴するそうである。

膀胱というのは尿(水分)を溜めるところである。膀胱には尿管といって腎臓から尿を送る管が二本つながっている。

父と母から流れてきた二つの悲しみに絶えられなくなり、膀胱(彼女)は小さくなり、痛み、抱えきれない悲しみをすぐ出し(頻尿)ていたのではないかなぁと思うわけです。

「肉体は心の影」

おかしいと思われても僕は信じます。彼女の涙は本物だと思う。本当に心から癒された涙だと思う。

 

後日談(後数時間談笑)として、間質性膀胱炎の症状はまさに僕が抱えている悩みでありました。そして、ふと思うと僕の母はうるさいぐらいの教育ママ。父は仕事一筋の何も言わない人だったわけだったのです。

つまり彼女の姿は僕の姿だったわけです。僕も両親から愛されていた。両親から愛されていない人なんていない。ただ勘違いしてしまうんですよ。思い込みというやつで。ほんとに困ったもんです。

うつし世。鏡の世界。環境は心の影。自分と他人は一つ。

よくいったものです。

この世界は本当に面白い。

感謝と喜びしかない。

おかしかったら笑おう

なぜ人は笑うのか。それはおかしいから。何かが違うから。いつもと違うから。ありえないことだから。
何か変だぞ。と思って笑う。いわゆる「お笑い」なんてのはそういうことなんだと思う。
でも、おかしくても笑えないときがある。
膝がおかしい、腰がおかしい、肩が。。
あの人が、彼が、彼女が、親が、子供が…

おかしい。。

って悩むんです。苦しむんです。
おかしかったら笑えばいいんですよ。
でも笑えない。

 

なぜか。

それは、自分に被害がくると思うから。
自分が傷つくと思うから。
周りが迷惑するから…悲しむから…

だから、自分や周りが大丈夫と思えた瞬間に笑えるんです。

 

烏丸通(わりと大きな道路)を自転車で走っていました。
逆走する自転車がふっと出てきました。
僕の後ろから車がきていたし「危なっ!」と思いました。事故は起らなかった。
ほっとした、その瞬間に笑えたんです。「ぷっ」って。「ありえねー」って。

昨日、妻と写真を整理していたら、ありえないぐらい散らかっている部屋の写真が出てきました(今年、部屋を整理すると決めその前に撮っていたのです)
それを見て2人で涙流して、お腹かかえて笑いました。「なにこれー、うちら必死やったな。周り見えなかったな。」って。
本当に、問題が解決した時、問題は無かったと気づいた時、人は笑えるのではないでしょうか。
解決方法がわからないとき、怒り、悩み、苦しむ。

 

根本の問題は何か。
一つに身体が自分と思うということだろう。
この身体が傷つく。つまり、自分が傷つく。それは困る。となるわけです。
そうではない。
自分というのは、この身体ではない。

自分の身体。という。
自分の足といい、自分の手、自分の頭、自分の脳みそ、自分の心…という。

つまり、どこまでいっても「自分の」というのがつくわけです。傷つくのは、自分の身体、自分の心が傷つくのであって「自分」ではない。
では、「自分」とは何か。
その存在を知る、わかる事が出来たら、本当にいろんなことが笑える。

僕は仕事柄、その存在を「生命」「いのち」という言葉で表現している。
身体は傷つくが生命は傷つかない。
死んだらどうなるのか?人間の最大の恐怖「死」
この死であっても、身体から生命がなくなるということ。
つまり、生命はどこまでいっても傷つかない。

 

その生命をどれだけ信じられるか。
その生命が本当の自分だとどれだけ信じられるか。
比べられない絶対のものとしてどれだけ信じられるか。
本当の自分は傷つかないとどれだけ信じられるか。

 

これは頭で考えることではない。
頭はあくまでも、身体の一部。生命の支配下にあるもの。
「自分の生命」と思った瞬間にこれまた「生命」というものも本当の存在「自分」の支配下におかれる。
そうではなく、そこを超越して、本当の自分を知った時に、本当の喜びを感じられる。
おかしかったら笑える。

そんなことを思う。

いよいよ僕はおかしくなってきたなぁと思う。

さぁ笑おう。

こんな生活がしたい

こうしたいという願いを持つ。しかし、そこに至る過程において、遠回りのようなことが目の前に現れてもそれに従う。それが遠いようで早道。
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