日々のこと

何気なく暮らすこともできます。何かを意識して生活することもできます。
人とはとても不思議なもので、感じたもの、考えたものに意識をおくと沢山の気づきがあります。
逆に、何も意識せずに暮らしていると気づいたら一日疲れて終わっていた。そんなこともあります。

与えられた同じ人生なら、少しでも何かに気づき、よりよく、心地よく暮らしていきたいものです。

死にたいということから

訪問マッサージをさせてもらっていると死にたいとおっしゃる方もおられます。

「死にたい」と言われて何を思いますか?!
僕は、最近それはそれでよいと思うようになりました。家族さんから言わせたら、何をと思われるでしょうし、自分の家族であればそうは思えないかもしれません。
しかし、第三者として、家族でない他人だからこそそう思えるような気がするのです。

「死にたい」という願いは必ず叶います。
「生きたい」という願いは最終的には叶いません。

生命を前向きにとるか、後ろ向きにとるかの違いで本質は同じのような気がします。

「死にたいということは、最終的には実現しますからその想いは静かに取っといてください。悪いことではないですし、ただ、今、生きてますからね。いつ起こるかわからないことを思い悩むより、今生きてますから。そこが大事なんですよ」と伝えるとホッとした顔をされます。

生きる事を目的とした医療、世の中では、死ぬこと、死にたいと思うことは悪いこととなっています。
悪いことを思ってしまう自分は悪い人間なんだ。生きたいと思っている人に失礼だ。そんな風に思ってしまうのではないでしょうか。
なぜ比べてしまうのでしょうか。
死にたいと思ってしまったことは仕方ない事だと思うのです。

例えば、目を覚ました時に手足が動かなかったらどう思いますか?!したいことが出来なくなった時にどう思いますか?
大恋愛の末にふられたら…
あと少しで手が届きそうなところにあと一歩で届かなかった…

こんなんだったら…って思ってしまっても仕方がないと思います。

だからと言って、「死にたい」がいいかという話ではありません。
生きたい、死にたい、ではなく、今生きているという場所に立つ事が大事だと思うのです。

今。生きている。

この事実にたつ。

過去できたことを懐かしくなるのではなく、いつか滅びる体のことを思うのではなく。

今。ここが大事だと思うのです。過去に生きるのではなく、未来に生きるのではなく、今を生きる。

美味しいお酒がグラスに半分になったとき、「半分しかない」「半分もある」ではなく、ただ素直に「半分ある」というところにたつ。
そこからゆっくり飲むのか、一気に飲んで楽しむか、友達とわけるのか、決めたらいい。

今を知る。
現状を知る。

そこから始めないといけないと思うのです。

CIMG0276

中島みゆきさんの「糸」という曲がある。

とても有名な曲だと思うのですが、とても素敵な曲でして。

歌詞を聞けばきくほど、美しさを味わえるといいますか。

♪縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は〜♪

この布がいろいろな事をするかもしれない。という歌詞です。

本当にそうです。

夫婦生活、パートナーシップ、人との関係において、もっといったら生き方においてかもしれません。この歌詞に本当に大事な事がつまっていると思うのです。

同じ糸でありながら、縦糸と横糸という全く違う性質のものが作り出す新しいもの。布。

同じ人間でありながら、全く違う男と女からうまれる夫婦。家族。

そこに新しいものが生まれる。

これは、事実だと思うのです。

同じものでありながら、違う性質を認め合い協力し合い助け合って何か成し遂げようとした時に新しい全く違った美しいものが生まれる。

 

しかし、自分と相手と違う事が大事であるはずなのに、自分は正しい相手は違う。もしくは自分が間違っていて相手が正しい。という判断をしてしまう。

相手がいて自分がいるという事実。自分がいて相手がいるという事実。

縦糸は縦糸のまま。横糸は横糸のまま。縦は横になる必要はなく、横は縦になる必要も無い。というよりなってはいけない。

そのままで。与えられた性質そのままで、生きていかなければいけない。だからこそ「布」が出来る。

その「布」は人を温められるかもしれない。傷をかばうかもしれない。その布を織りあり合えた糸に出会えた事を、人は仕合せと呼ぶのだそうです。

「相手と違う」これは、当たり前である。だからこそ新しいものがうまれる。

そのままで、ありのままで、認め合った時、受け入れ合った時、美しいものがうまれる。

 

そんなことをいっても…ねぇ…

それはきっと自分と他人は別であるという認識からくるのであろう。

もし自分と他人が一つであり同じ存在という認識が出来たならば、そんなことはおこらない。

自分と他人は違う。でも自分と他人は同じという話になっている。

ややこしくなってきた。

でも、これは視点が違うわけで。

 

身体を考えてみたら良いのだと思う。

右手と右足はまったく性質が違う。右手が右足になる必要は無い。というか、なり得ない。うらやむ必要も無い。なってはいけない。

しかし、大きな視点で見ればそれは、同じ一つの身体の一部であるということ。一つの身体を動かす為に、それぞれが同じ目的をもってそれぞれの働きをする。

部分という視点に立つ時、それぞれは違って見える。全体という視点に立つ時、それぞれは同じ一つのものであるように見える。

 

人間関係においてもそう。一人一人で見たら違う。でも大きな視点でみれば同じ生命によって生かされているわけです。

地域を日本を世界を地球を宇宙を、それらを構成する一人一人が、それぞれ与えられている働きを知り、していければみんなが喜び、幸せになれる。

と思うのです。

「糸」聴いてみて下さい。

おかしかったら笑おう

CIMG1226

なぜ人は笑うのか。それはおかしいから。何かが違うから。いつもと違うから。ありえないことだから。
何か変だぞ。と思って笑う。いわゆる「お笑い」なんてのはそういうことなんだと思う。
でも、おかしくても笑えないときがある。
膝がおかしい、腰がおかしい、肩が。。
あの人が、彼が、彼女が、親が、子供が…

おかしい。。

って悩むんです。苦しむんです。
おかしかったら笑えばいいんですよ。
でも笑えない。

 

なぜか。

それは、自分に被害がくると思うから。
自分が傷つくと思うから。
周りが迷惑するから…悲しむから…

だから、自分や周りが大丈夫と思えた瞬間に笑えるんです。

 

烏丸通(わりと大きな道路)を自転車で走っていました。
逆走する自転車がふっと出てきました。
僕の後ろから車がきていたし「危なっ!」と思いました。事故は起らなかった。
ほっとした、その瞬間に笑えたんです。「ぷっ」って。「ありえねー」って。

昨日、妻と写真を整理していたら、ありえないぐらい散らかっている部屋の写真が出てきました(今年、部屋を整理すると決めその前に撮っていたのです)
それを見て2人で涙流して、お腹かかえて笑いました。「なにこれー、うちら必死やったな。周り見えなかったな。」って。
本当に、問題が解決した時、問題は無かったと気づいた時、人は笑えるのではないでしょうか。
解決方法がわからないとき、怒り、悩み、苦しむ。

 

根本の問題は何か。
一つに身体が自分と思うということだろう。
この身体が傷つく。つまり、自分が傷つく。それは困る。となるわけです。
そうではない。
自分というのは、この身体ではない。

自分の身体。という。
自分の足といい、自分の手、自分の頭、自分の脳みそ、自分の心…という。

つまり、どこまでいっても「自分の」というのがつくわけです。傷つくのは、自分の身体、自分の心が傷つくのであって「自分」ではない。
では、「自分」とは何か。
その存在を知る、わかる事が出来たら、本当にいろんなことが笑える。

僕は仕事柄、その存在を「生命」「いのち」という言葉で表現している。
身体は傷つくが生命は傷つかない。
死んだらどうなるのか?人間の最大の恐怖「死」
この死であっても、身体から生命がなくなるということ。
つまり、生命はどこまでいっても傷つかない。

 

その生命をどれだけ信じられるか。
その生命が本当の自分だとどれだけ信じられるか。
比べられない絶対のものとしてどれだけ信じられるか。
本当の自分は傷つかないとどれだけ信じられるか。

 

これは頭で考えることではない。
頭はあくまでも、身体の一部。生命の支配下にあるもの。
「自分の生命」と思った瞬間にこれまた「生命」というものも本当の存在「自分」の支配下におかれる。
そうではなく、そこを超越して、本当の自分を知った時に、本当の喜びを感じられる。
おかしかったら笑える。

そんなことを思う。

いよいよ僕はおかしくなってきたなぁと思う。

さぁ笑おう。

こんな生活がしたい

IMG_1959.JPG

こうしたいという願いを持つ。しかし、そこに至る過程において、遠回りのようなことが目の前に現れてもそれに従う。それが遠いようで早道。
続きを読む

サドル

IMG_2034.JPG

自転車のサドルがちょっとおかしいなぁと思って力を入れたら、バキッという音と共にサドルがとれまして…
止めてたネジが折れたようです。

続きを読む

親バカ

Exif_JPEG_PICTURE

親バカという言葉がある。これは、大事な大事な親に与えられている感情のように思う。

続きを読む